関盛信は、戦国時代から安土桃山時代にかけて伊勢国(現在の三重県)北部で勢力を誇った伊勢北伊勢八家の一人であり、亀山城の歴史を語る上で欠かせない重要人物である。彼は、鈴鹿川流域を支配した関氏の当主として、激動の時代を生き抜いた。
1. 関盛信と亀山城の堅守
関氏は代々、伊勢国鈴鹿郡を本拠地とする国人領主だった。盛信の時代、亀山城は関氏の本城として機能していた。
信長の北伊勢侵攻: 永禄10年(1567)、織田信長が北伊勢への侵攻を開始する。周辺の諸勢力が次々と降伏する中、盛信は亀山城に立てこもり、織田軍に対して激しい抵抗を見せた。
和睦と臣従: 滝川一益らによる猛攻を受けるが、亀山城の守りは堅く、すぐには落城しなかった。最終的には、信長の三男・織田信孝を神戸氏の養子に、弟の織田信雄を北畠氏の養子に迎えるなどの条件を含む和睦が行われ、盛信は織田家に従うこととなった。
2. 織田政権下の苦難
信長に仕えてからの盛信は、織田軍の有力な一翼として各地を転戦したが、その立場は決して安泰ではなかった。
追放と幽閉: 天正2年(1574)、信長の怒りに触れ、突如として領地を没収され、高野山へ追放されてしまう。これは一説には、部下の不手際や、信長の直轄地支配を強めるための粛清の一環であったとも言われている。
復帰: その後、許されて戦線に復帰し、本能寺の変後は織田信雄、次いで豊臣秀吉に仕えた。
3. 蒲生氏郷との深い縁
盛信の人生において、もう一つの大きな転機は娘(あるいは妹)が蒲生氏郷の家臣(または氏郷自身との縁戚関係)と関わりがあったことや、関家自体が蒲生家の与力となったことである。
若松城への転封: 秀吉の時代、蒲生氏郷が会津(福島県)へ移封される際、関盛信もこれに従ったた。長年守り続けた伊勢亀山城を離れ、陸奥国白河(白河城)などを任されることになる。
子孫の活躍: 盛信の子・一政も蒲生氏郷に仕え、九州平定や小田原征伐で功績を挙げた。関家はその後、紆余曲折を経て伯耆黒坂藩主や近江伊勢田領主として江戸時代を生き抜いていくことになる。
4. 歴史的評価と亀山城の変遷
盛信が去った後の亀山城は、岡本良勝が入城して近世城郭へと改修され、江戸時代には伊勢亀山藩の藩庁として整備された。
豆知識: 盛信が守った戦国期の亀山城と、現在見ることができる多門櫓(県指定文化財)などが残る近世亀山城は、構造が異なる。しかし、東海道の要衝であるこの地に城を構え、信長の猛攻を凌いだ盛信の判断が、後の「亀山」の繁栄の礎となったと言えるだろう。
関盛信の足跡を辿るなら、彼がかつて支配した関宿(関氏の名が由来)も併せて巡ると、当時の北伊勢の勢力図がより鮮明に見えてくるだろう。












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