筒井定次(つつい さだつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名で、伊賀上野城を築いた人物として知られています。

​養父である筒井順慶のイメージや、その後の改易といった結末から、歴史上では「暗愚」あるいは「日和見主義者」といった否定的な評価をされがちですが、実際には豊臣政権下で武功を挙げ、領地経営にも手腕を発揮した武将でした。

​1. 筒井家の継承と豊臣政権での活躍

  • 家督の継承: 永禄5年(1562年)、慈明寺順国の次男として生まれました。叔父(従兄)である大和の戦国大名・筒井順慶に子がなかったため、養嗣子となり天正12年(1584年)に家督を継ぎました。
  • 武功: 織田信長の娘を妻に迎え、豊臣秀吉の天下統一事業においては、紀州征伐や四国攻め、小田原征伐などに参戦し、先鋒を務めるなど軍事面で貢献しました。

​2. 伊賀上野城の築城と領国経営

  • 伊賀への移封: 天正13年(1585年)、秀吉の命により大和国から伊賀国(20万石)へ移封されました。
  • 城と城下町の発展: 伊賀に移った定次は、伊賀上野城を築き、近世城郭の基礎を築きました。当時の伊賀は戦乱の影響で荒廃していましたが、定次は積極的に町を整備し、城下町としての基盤を整えました。この時期の定次は、地元の人々からも慕われていたという伝承も残っています。

​3. 関ヶ原の戦いから改易へ

  • 関ヶ原での立ち回り: 関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家康側)に属しました。一時、留守を突かれて居城の伊賀上野城を西軍に奪われるという失態を演じましたが、急ぎ引き返して奪還し、その後、本戦でも奮戦しました。
  • 改易の真相: 戦功により所領を安堵されましたが、徳川家康にとって、豊臣家恩顧の有力大名が「大坂城への要衝」である伊賀を領有し続けることは極めて危険でした。慶長13年(1608年)、定次は家臣団の内紛や悪政を理由に改易を命じられ、領地を没収されました。

​4. 悲運の晩年

  • 最期: 改易後、定次は京で隠居生活を送りました。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際し、豊臣方に内通したという疑いをかけられ、幕府の命により嫡男の順定と共に自害に追い込まれました。享年54歳でした。

​歴史的評価の再考

​定次が「暗愚」と評価される理由の多くは、後に入封した藤堂高虎による大規模な城の改築や、幕府による徳川の正当性強化の過程で、前任者である定次の事績が意図的に軽視、あるいは悪評として塗り替えられた面があるとも指摘されています。近年では、短期間で荒れた伊賀の地を治め、文化振興にも寄与した統治者としての実力が再評価されつつあります。

筒井定次や伊賀上野城の改易についての解説動画

​この動画では、筒井定次が置かれた政治的な苦境や、なぜ改易に至ったのかという経緯が分かりやすく解説されています