向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)は、福島県大沼郡会津美里町にある、戦国時代屈指の規模を誇る巨大な山城である。会津の支配者であった蘆名氏が築いた、東北地方最大級の城郭遺構として知られている。
1. 歴史的背景
築城: 永禄11年(1568)、会津の名族・蘆名盛氏(あしな もりうじ)によって築かれた。盛氏が隠居所として、また軍事的な要塞として築いたもの。
蘆名氏の全盛期: 当時の蘆名氏は「奥州の太守」と称されるほどの勢力を持っていた。この城は、伊達氏などの強豪に対する防衛の拠点として機能した。
廃城: 蘆名氏が伊達政宗に敗れた(摺上原の戦い)後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏と支配者が変わるが、慶長5年(1600)の上杉景勝の時代、関ヶ原の戦いに伴う戦略的な判断などにより廃城となった。
2. 城郭の構造と規模
向羽黒山城は、標高約400m、比高(麓からの高さ)約190mの山全体を要塞化した連郭式の山城。
東北最大級: 遺構の広さは南北約1.4km、東西約1.0kmに及び、国指定史跡となっている。
要害の地: 阿賀川(大川)を天然の堀として利用し、三方を急峻な崖に囲まれた、非常に堅固な守りを誇る。
主要な曲輪:
一の曲輪: 標高の一番高い場所に位置する実質的な本丸。周囲には巨大な石積み(石垣)が一部残っており、当時の威容を伝えている。
二の曲輪: 盛氏の居館があったとされる場所で、非常に広い面積を持っている。
三の曲輪: 多くの家臣団を収容できたと考えられている。
3. 見どころと特徴
巨大な空堀と土塁: 山城ならではのダイナミックな地形加工が、今も鮮明に残っている。
石垣の先駆け: 東北の山城としては非常に早い段階で「石積み」が導入されており、近畿地方の城郭の影響や、技術の高さがうかがえる。
絶景: 本丸付近からは会津盆地を一望でき、磐梯山を望む素晴らしい景色を楽しむことができる。
4. 訪問時の注意
登山道: 一部車で登れる場所もあるが、本格的な遺構を見て回るには山歩きに適した服装と靴が必要。
資料館: 麓にある「会津美里町本郷生涯学習センター」などで、城の歴史や発掘調査の資料を確認することができる。
会津若松城(鶴ヶ城)が「近世の平山城」の代表なら、この向羽黒山城は「戦国の巨大山城」の代表格と言えるだろう。戦国ファンにとっては、その規模と堅固さを肌で感じられる貴重な史跡である。
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向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)について
概要
向羽黒山城は、陸奥国(現・福島県大沼郡会津美里町)にあった、日本最大級の山城です。城跡は国の史跡に指定されています。 (Wikipedia)
築城の歴史
永禄4年(1561年)、蘆名盛氏によって築かれました。盛氏が隠居城として築いたもので、家督を盛興に譲った後、盛氏は向羽黒山城へと移りました。しかし天正2年(1574年)、盛興が26歳の若さで嗣子なく没すると、盛氏は後見人として黒川城へ再び移ることとなり、一度は廃城となったとされます。 (Pei)
蘆名盛氏は実に8年もの歳月をかけて築城しました。 (Town)
戦国大名たちによる改修
1589年(天正17年)、蘆名氏が伊達政宗に「摺上原の戦い」で敗れた後も、会津領主となった政宗・蒲生氏郷・上杉景勝らが改修して利用し続けました。特に上杉氏は、豊臣秀吉の命により会津に移封となった1598年(慶長3年)から1599年(慶長4年)にかけて、韓国の熊川倭城を参考に籠城戦を想定した大規模な改修を加えたといいます。 (Kojodan)
上杉景勝・直江兼続は、向羽黒山城を対家康の最後の砦として位置づけていたとされる説もあり、会津で戦いが起こっていれば最も重要な拠点になったと考えられています。 (Japan-castle-guide)
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いでの上杉軍の敗戦に伴い、廃城となりました。 (Yae-mottoshiritai)
城の規模と構造
城の規模は東西1.4km、南北1.5km、面積は50ヘクタールにも及びます。東を流れる阿賀川や東部分の崖などの天然の要害に加え、土塁や堀などの防御施設がいたるところに造営されています。 (Wikipedia)
その広さは上杉謙信の居城であった春日山城をしのぐとも言われており、全国でも有数の山城です。 (Japan-castle-guide)
主郭の一の曲輪は山頂にあり、南西から北東に連なります。主郭北西下には横堀が巡り、北東下に枡形を備えます。南西下には大堀切があり、東西両側に竪堀が山腹まで伸びています。二の丸から三日町方面へ降りるルートには、枡形・馬出し・ジグザグの通路・巨大な竪堀と横堀の組み合わせなど、見所が満載です。 (Pei)
文化的価値と現在
平成13年(2001年)8月7日、一曲輪・二曲輪・御茶屋場曲輪など多くの遺構を残す岩崎山を中心に、国指定史跡となりました。 (Town)
また平成29年(2017年)4月6日には「続日本100名城」にも選定されており、スタンプラリーのスポットとして全国の城郭ファンに親しまれています。 (Town)
現在の遺構は隠居城というには遙かに壮大で、虎口などは非常に技巧的かつ規模が大きく、蘆名氏の後に会津を領した伊達・蒲生・上杉の各領主によって改修が重ねられた痕跡を色濃く残しています。 (Pei)
二曲輪広場や御茶屋場曲輪からは、磐梯山や飯豊山、会津若松市を望むことができ、会津一円を見渡せる絶景スポットにもなっています。 (Town)
アクセス
JR只見線・会津本郷駅から徒歩20分、または会津若松駅からバス「本郷行き」で約30分、「インフォメーションセンター前」バス停下車が便利です。 (Kojodan) 城跡入口には「向羽黒ギャラリー(向羽黒山城跡整備資料室)」があり、発掘調査の様子や城の立体模型などが展示されています。
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会津の葦名氏は相模(神奈川県)の三浦一族。1192年に鎌倉幕府を樹立した源頼朝の御家人として、多大な軍功により、会津の穀倉地帯である北部を中心に領地を得たといいます。
葦名氏の全盛期を築いたたのが16代盛氏で、最大の勢力を誇ったのは戦国の世もたけなわのころ。領内の豪族をまとめあげ一枚岩とした盛氏は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを従え、百万石の会津太守と謳われ葦名家中興の祖と呼ばれるようになりました。8年の歳月をかけて向羽黒山城を築いたのも盛氏です。
しかし、盛氏の嫡男で17代の盛興は、世継を残さず天正2年(1574)29歳の若さで病没。そのため盛氏は、残された盛興婦人(伊達氏女)に、須賀川から人質の二階堂盛隆を婿にして葦名家を継がせましたが家臣に斬殺され、その子亀若(王)丸も幼年のまま病死してしまいます。
全盛期を築いた盛氏でしたが、天正8年に60歳で没して以降、その後の養子問題でも家中が乱れ、運命の天正17年(1589)、磐梯山麓の摺上原の合戦で伊達政宗に大敗し、会津支配400年の歴史に終止符を打たれてしまいます。
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国指定史跡「向羽黒山城跡」
平成13年8月7日、国の史跡指定となった向羽黒山城の遺構の巨大さは東北随一。上杉謙信の居城であった春日山城をも凌ぐといわれており、全国でも有数の山城として熱い視線が注がれています。盛氏以降の時代にならないと出現しない遺構も多く存在することから、歴代の会津領主(伊達・蒲生・上杉氏)が改修を繰り返していたことがわかっています。
“天地人”の直江山城守兼続も目をつけた
向羽黒山城
時代は下り、上杉景勝の時代、豊臣秀吉の死後徳川家康が改権をつかむと、秀吉の重臣であった景勝にも圧力をかけてきました。有名な「直江状」は会津で書かれたものです。
徳川家康の会津攻撃の報を聞くや、景勝は神指城の築城をやめ、白河方面の防塁を築き始めました。しかし、それ以前に向羽黒山城にすでに手を加えていたことはあまり知られていません。景勝は、会津に入ると真っ先に、向羽黒山城を2年間かけて大改修しているといわれています。
景勝・兼続は、向羽黒山城を対家康戦の最後の砦として考えていた説もあり、会津で東北の関ヶ原が行われていれば、最も重要な砦となりえる山城であったのです。














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